2011年03月10日

備中杜氏(とうじ)

消滅する備中杜氏(とうじ)
酒蔵の中では“杜氏(とうじ)”は「おやっつぁん」と呼ばれ蔵の全権を任され、その年収は最盛期には、学校の校長の年収すら超えたと伝わっています。
冬の農閑期、冬期の海がしける漁業の閑散期には、酒屋働きは、最高の収入源だったようで、酒屋の「百日間の稼ぎ」は、またとないチャンスでした、より良い収入を得るために、技術の習得、向上につとめたのです。 
こうした季節の“酒屋働き”と言う制度の中で、「備中杜氏」と言う技術集団が生まれ育って来たのです。
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蔵の運命を左右した当時の技術
江戸期から明治初期の酒蔵にとって最も恐れたのは「腐造」でした。地域で指折りの富豪が2年連続で「腐造」したために廃業したことすらあったそうです。
かつては、腕の良い「腐造」しない杜氏は、蔵からも引く手あまたで、多くの人々が技術持ち季節労働者として故郷を離れ、出稼ぎにでたのでした。
 備中全域の中でも、大島、寄島、南浦、里庄、鴨方、の地域から特に数多くの人々が酒造りの仕事に従事し、それらは備中杜氏と呼ばれました。
特に寄島の集団は結束も固く昭和の中ごろまで一世を風靡していたそうです。

備中杜氏の起源
 備中杜氏は、300年前の元禄年間、笠岡市正頭、(旧浅口郡大島村正頭)に住んでいた浅野弥次兵衛と言う人が兵庫、大阪間の海運業者に勤めているとき遭難し、今の神戸の灘地方に漂着し、そのまま灘の酒屋に雇われ、酒造技術を習得し、それを故郷に持ち帰り、弟子達を育成したことが備中杜氏の発祥だったとも言われています。明治の初めまでわが国における最大の化学産業であった酒屋のこの地方での屋台骨を支えたのは、この技術集団だったのです。

最盛期2000人とも・・・
 その技術は徒弟制度のもと弟子達に伝授され、文化年間には「備中杜氏」の名前で全国的に有名になるまでになりました。
明治に入り、備中杜氏の平野利八(岡山県里庄町出身)の醸造した「三角正宗」(戦中の企業統合で廃業)は、第1回の全国清酒品評会で全国5位に入り、また、第3回の全国清酒品評会において全国で第1位の優等金牌を授与され「備中杜氏」の名声を高めました。
 そして、「備中杜氏」は、次第にその人数が増加し、明治20年頃には100名、大正3年頃には540名までになり、最盛期には杜氏300名、代師250名、代師(麹師などを云う)以下を合わせれば2000名に達したと云われ、その人々が近郷の酒造場はもとより全国各地へ出かけて行きました。
弊社元杜氏 柴倉作太郎氏は若いときには四国愛媛の松山へ、それ以前の元杜氏 水田糺氏は若いとき戦前には朝鮮半島まで出かけたと聞いています。

蔵をあずかる
一人の杜氏が親族、縁者など4〜6人の蔵人をつれて1つのユニットを組んで各地を転々としたのです。
最盛期には備中杜氏は、内地の各地、さらに朝鮮、台湾、樺太、さらに中国大陸までも進出し、文字通り「備中杜氏」の名は東アジア全体に広がり黄金時代を築きました。またその弟子から優秀な人が杜氏として独立する、そうして備中杜氏の集団はどんどん大きくなりました。

下積みから始める徒弟制度
以前「おやっつぁん(杜氏の蔵での呼び名)」に聞いたところによると、蔵に出始めの人は、杜氏の身の回りの世話、ふんどしまで洗うのが当たり前であつたと・・・。そしていつかは自分も杜氏になりたいと師匠の技、技術の習得に努めたそうです。

水島コンビナートの登場
1960年代に入ると、比較的工業化が遅れ働く場の少なかった備中地方の水島にコンビナートが出現、その下請け工場も多数出来、備中地方の労働環境が一変します。
弊社の代師さんが年間雇用を求めコンビナートへ移ったのもこの頃です。酒屋の製造量もこの頃がピークでその後、徐々に下降し始めます、酒屋の賃金もだんだん以前ほど他業種比べ突出した魅力的なものでなくなっていきます。

季節労働の激減
 昭和の時代も終わる頃になると新たに杜氏になりたい人が激減します。蔵の数も減りますから需給関係は何とか、つじつまが合うのですが、杜氏の年齢が1年で1歳近く大きくなり始めたのもこの頃です。若くして、半年も故郷を離れ、徒弟として合宿の下積み生活を希望する下子は皆無になりました。

最後の季節杜氏
昨年、地元新聞に年間雇用ではない、純粋な季節労働の最後の備中杜氏 秋山洋祐氏が引退する記事が出ていました。ついに「備中杜氏」も年間雇用者や蔵元杜氏、経営者一族だけとなってしまいました。半農・半漁の純粋な技術持ち季節労働者としての「備中杜氏」はとうとう終わりをつげたのです。

備中流の酒造りとは
一般に言われる備中流の酒造りの特徴は次のとおりです。「蒸し」は、強い和釜蒸気によるサバケの良い蒸し米に仕上げる。
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「製麹」は仲仕事後、品温の急昇をはかり、相対的に蛋白分解酵素力価に比して糖化酵素力価を強めており、現今の吟醸麹造りの源流ともいえる。

「酒母」は、比較的短期間に仕上げて、酛癖を廃し、味は軽快で淡白にする。

「仕込」は、酒母歩合は少なく、初添の水を伸ばし、留添までの汲水歩合は少なく随時の追水で適切な発酵管理を行っている。

結果としての「品質」は、“爽やかな香りで旨みはあるが、アミノ酸度は少なく、軽快で、雑味が少ない飲みやすい淡麗型にして旨口の酒質”となると

(以上日本醸造協会第78巻 第10号 738−740項より抜粋、一部補筆)ただ、この記事を書いた備中杜氏 中浜昭夫氏は、私が生まれた頃の弊社杜氏であり、うちが長年やってきたやり方と妙に一致するので・・・・これが一般的だったかどうかは私には分かりません。

近隣での工業化が早く進み、雇用条件の問題から、純粋な雪国の、但馬、丹波、南部などに比べ衰退の早かった「備中杜氏」ですが、純粋な季節労働の「備中杜氏」が消えても、伝統のそのつくりと技は今後も各蔵の中に生きつづけてもらいたいものです。
ラベル:日本酒
posted by 作州武蔵くん at 15:35| Comment(0) | 酒づくり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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