2011年06月01日

酒で日露戦争に勝った

酒税は、明治時代になると1868年(明治元年)に旧来の免許石数の維持を命じるとともに冥加金を課しました。1871年(明治3年)酒株と酒造統制を廃止し、代わりに免許料、免許税、醸造税に変更、1875年(明治8年 )には酒類税則を定めて免許料を廃して醸造税を販売代金の1割とした。1878年(明治11年)には再び醸造税を造石高1石に対して酒類ごとにいくらと改めました。1880年(明治13年)に新たに酒造税制を制定し、初めて「酒造税(しゅぞうぜい)」という呼称を用いました。従来の税制を酒造免許税と酒造造石税の2本立てとしました。1896年(明治29年)には酒造税法が成立し、旧来の酒税免許税を新税である営業税に譲ってこれを廃止して酒造造石税に一本化するとともに、造石高1石に対して第1種(清酒・白酒・味醂)、第2種(濁酒)、第3種(焼酎・酒精)の種別ごとの税額を定めて長く基本原則としました。明治初期の国税収入は「地税(地租)」が全体の90%を占め、酒類税の比率は当初、数パーセントの状態でした。ところが、日露戦争中に戦費が不足。戦費を調達するために、酒税が年を追って大幅に上げられました。
日露戦争時には国家税収の約35%を酒税が占めていました。これが「酒で日露戦争に勝った」といわれる所以です。もちろん、当時の酒はほとんど日本酒です。
さらに日露戦争以後には、酒の密造を防止するため酒母や麹の取締法が出されました。(どぶろく禁止法)酒造税は1899年(明治32年)に地租を抜いて国税収入の第1位を占めると、第一次世界大戦下の大戦景気の数年間を例外として1935年(昭和10年)に所得税に抜かされるまで30年以上にわたって税収1位の地位を保持し続けたのです。なお、1902年(明治35年)には酒造税だけで全ての国税収入の実に42%を占めたこともあったそうです。
現在のビール、焼酎、などを含めた全ての酒税収入は、年間1.5兆円前後、税収全体のわずか3%です。
酒税だけで、国家税収の42%を占めていた時代があったことを思うと、現在、国に多くの仕事を望み、結果、大きな政府を招いてしまっている現状が正しいかどうかを国民がぼちぼち真剣に議論すべきではないでしょうか?
P1020722.JPG
また現代では、日本酒の税のウエートが下がることにより、製造元に対する税務署の指導に微妙な変化が見られます。以前は本筋の「税逃れ」の捜索に重きが置かれていたのですが、近年悲しいかな、帳簿上ミスや、手続きの落しの・・・事務上の「あら捜し」に重点が移ってきているように感じます。一度作ってしまった制度が本来の目的と逸脱して、勝手に一人歩きする悲しい現実がここにあります・・・。
posted by 作州武蔵くん at 13:56| Comment(11) | 酒づくり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月10日

桶屋さん

桶屋さん
私の小さい頃は家から100mほど南にも
「桶屋さん」があったが・・・・すでに廃業されました・・・
又、弊社の元杜氏 柴倉作太郎氏は、
若いときに桶屋で1年だったか2年だったか?修行したとか・・・

以前蔵の作業を手伝いながら
柴倉杜氏に聞いたことがある・・・「何で桶屋を?」
「・・・そりゃあ今ならおかしいかも知れんが
あの頃は立派な職業として桶屋はたくさんあった
急に仕事が減りだしたのでこれはまずいと思って酒造りに行き出した。」と

一般家庭でも金属、プラスチック、に取って代わられ
洗い桶、すし桶、飯櫃・・・一般家庭からも桶屋の作品もどんどん消えてしまいました・・・
酒屋の道具もアルミ、ステンレス、ホーロー桶に丁度変わりだしたころ
そう言えばうちのタンクの購入時期は昭和30年代後半から40年代が多いですわ。
P1030127.JPG
↑↓手先が器用な柴倉杜氏の作品はまだまだ多数現役です。
P1030125.JPG
・・・・でもこの先いつまで保守が出来やら・・・・
ラベル:桶屋
posted by 作州武蔵くん at 19:01| Comment(0) | 酒づくり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月10日

備中杜氏(とうじ)

消滅する備中杜氏(とうじ)
酒蔵の中では“杜氏(とうじ)”は「おやっつぁん」と呼ばれ蔵の全権を任され、その年収は最盛期には、学校の校長の年収すら超えたと伝わっています。
冬の農閑期、冬期の海がしける漁業の閑散期には、酒屋働きは、最高の収入源だったようで、酒屋の「百日間の稼ぎ」は、またとないチャンスでした、より良い収入を得るために、技術の習得、向上につとめたのです。 
こうした季節の“酒屋働き”と言う制度の中で、「備中杜氏」と言う技術集団が生まれ育って来たのです。
P1020720.JPG
蔵の運命を左右した当時の技術
江戸期から明治初期の酒蔵にとって最も恐れたのは「腐造」でした。地域で指折りの富豪が2年連続で「腐造」したために廃業したことすらあったそうです。
かつては、腕の良い「腐造」しない杜氏は、蔵からも引く手あまたで、多くの人々が技術持ち季節労働者として故郷を離れ、出稼ぎにでたのでした。
 備中全域の中でも、大島、寄島、南浦、里庄、鴨方、の地域から特に数多くの人々が酒造りの仕事に従事し、それらは備中杜氏と呼ばれました。
特に寄島の集団は結束も固く昭和の中ごろまで一世を風靡していたそうです。

備中杜氏の起源
 備中杜氏は、300年前の元禄年間、笠岡市正頭、(旧浅口郡大島村正頭)に住んでいた浅野弥次兵衛と言う人が兵庫、大阪間の海運業者に勤めているとき遭難し、今の神戸の灘地方に漂着し、そのまま灘の酒屋に雇われ、酒造技術を習得し、それを故郷に持ち帰り、弟子達を育成したことが備中杜氏の発祥だったとも言われています。明治の初めまでわが国における最大の化学産業であった酒屋のこの地方での屋台骨を支えたのは、この技術集団だったのです。

最盛期2000人とも・・・
 その技術は徒弟制度のもと弟子達に伝授され、文化年間には「備中杜氏」の名前で全国的に有名になるまでになりました。
明治に入り、備中杜氏の平野利八(岡山県里庄町出身)の醸造した「三角正宗」(戦中の企業統合で廃業)は、第1回の全国清酒品評会で全国5位に入り、また、第3回の全国清酒品評会において全国で第1位の優等金牌を授与され「備中杜氏」の名声を高めました。
 そして、「備中杜氏」は、次第にその人数が増加し、明治20年頃には100名、大正3年頃には540名までになり、最盛期には杜氏300名、代師250名、代師(麹師などを云う)以下を合わせれば2000名に達したと云われ、その人々が近郷の酒造場はもとより全国各地へ出かけて行きました。
弊社元杜氏 柴倉作太郎氏は若いときには四国愛媛の松山へ、それ以前の元杜氏 水田糺氏は若いとき戦前には朝鮮半島まで出かけたと聞いています。

蔵をあずかる
一人の杜氏が親族、縁者など4〜6人の蔵人をつれて1つのユニットを組んで各地を転々としたのです。
最盛期には備中杜氏は、内地の各地、さらに朝鮮、台湾、樺太、さらに中国大陸までも進出し、文字通り「備中杜氏」の名は東アジア全体に広がり黄金時代を築きました。またその弟子から優秀な人が杜氏として独立する、そうして備中杜氏の集団はどんどん大きくなりました。

下積みから始める徒弟制度
以前「おやっつぁん(杜氏の蔵での呼び名)」に聞いたところによると、蔵に出始めの人は、杜氏の身の回りの世話、ふんどしまで洗うのが当たり前であつたと・・・。そしていつかは自分も杜氏になりたいと師匠の技、技術の習得に努めたそうです。

水島コンビナートの登場
1960年代に入ると、比較的工業化が遅れ働く場の少なかった備中地方の水島にコンビナートが出現、その下請け工場も多数出来、備中地方の労働環境が一変します。
弊社の代師さんが年間雇用を求めコンビナートへ移ったのもこの頃です。酒屋の製造量もこの頃がピークでその後、徐々に下降し始めます、酒屋の賃金もだんだん以前ほど他業種比べ突出した魅力的なものでなくなっていきます。

季節労働の激減
 昭和の時代も終わる頃になると新たに杜氏になりたい人が激減します。蔵の数も減りますから需給関係は何とか、つじつまが合うのですが、杜氏の年齢が1年で1歳近く大きくなり始めたのもこの頃です。若くして、半年も故郷を離れ、徒弟として合宿の下積み生活を希望する下子は皆無になりました。

最後の季節杜氏
昨年、地元新聞に年間雇用ではない、純粋な季節労働の最後の備中杜氏 秋山洋祐氏が引退する記事が出ていました。ついに「備中杜氏」も年間雇用者や蔵元杜氏、経営者一族だけとなってしまいました。半農・半漁の純粋な技術持ち季節労働者としての「備中杜氏」はとうとう終わりをつげたのです。

備中流の酒造りとは
一般に言われる備中流の酒造りの特徴は次のとおりです。「蒸し」は、強い和釜蒸気によるサバケの良い蒸し米に仕上げる。
P1020722.JPG
「製麹」は仲仕事後、品温の急昇をはかり、相対的に蛋白分解酵素力価に比して糖化酵素力価を強めており、現今の吟醸麹造りの源流ともいえる。

「酒母」は、比較的短期間に仕上げて、酛癖を廃し、味は軽快で淡白にする。

「仕込」は、酒母歩合は少なく、初添の水を伸ばし、留添までの汲水歩合は少なく随時の追水で適切な発酵管理を行っている。

結果としての「品質」は、“爽やかな香りで旨みはあるが、アミノ酸度は少なく、軽快で、雑味が少ない飲みやすい淡麗型にして旨口の酒質”となると

(以上日本醸造協会第78巻 第10号 738−740項より抜粋、一部補筆)ただ、この記事を書いた備中杜氏 中浜昭夫氏は、私が生まれた頃の弊社杜氏であり、うちが長年やってきたやり方と妙に一致するので・・・・これが一般的だったかどうかは私には分かりません。

近隣での工業化が早く進み、雇用条件の問題から、純粋な雪国の、但馬、丹波、南部などに比べ衰退の早かった「備中杜氏」ですが、純粋な季節労働の「備中杜氏」が消えても、伝統のそのつくりと技は今後も各蔵の中に生きつづけてもらいたいものです。
ラベル:日本酒
posted by 作州武蔵くん at 15:35| Comment(0) | 酒づくり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月20日

「酵母の混合仕込」と「培養」

「香りのある酵母」と「味の良い酵母」の混合・・・・
そんな2つの異なった酵母の性質を利用する酵母の混合仕込み、酵母の発酵力をそろえるために自家培養か外部委託で混合してもらうかが必要です
酵母培養
うちでは自家培養を行なっています、従来、コンタミ、雑菌の混入のリスクを避ける為、静置培養を行なっていました。
しかし、通気ポンプに濾過層をはさむことにより、今期から通気培養に切り替えました

通気すると同じ培養液で酵母数が約10倍に増えますので
培養液が少量で済み、移し変えの時のコンタミ、汚染のリスクも回避されます

酵母は、以前は混合してもどちらかの性質だけが出てしまうので
酵母の混合は意味が無いと言われ「酵母の混合は邪道」とまで言われた時代がありました。


しかし、日本醸造協会の先生方の努力の結果
弱い酵母、強い酵母の、それぞれの関係がほぼ分かり酒母(酛)で、醪で、
安定した再現性のある、酵母混合仕込みの理論が確立されました。


ただ酵母の混合仕込みも、仕込み本数がだんだん増えてくると、結局、酒母()の前に無菌状態の小型の酒母(酛)をつくるようなもので、酒母仕込みの日程に合わせ直前にきっちり培養を終わらせる必要があります、専属研究員のいない田舎の小酒屋にはかなりの負担。
正直言ってきついです・・・
うちぐらいの規模で自社でやっているところは全国広といえども・・・・

でも味があり、香もある酒を造るためには絶対必要な工程。
・・・・・いけるところまで頑張ってみます
ラベル:酵母の培養
posted by 作州武蔵くん at 09:19| Comment(0) | 酒づくり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月14日

作州武蔵の麹室(こうじむろ)

弊社の麹室の板は先代が自ら鳥取県の「智頭」の製剤所に買い付けに行き
購入後、乾燥施設に委託して乾燥させたものを使用しています
板張りの麹室.JPG
木材の自然の呼吸がやさしい空気と空間を生みます

弊社の最も新しい酒蔵は昭和43年建築
当時の麹室(こうじむろ)は空調だけで湿度を簡単に下げ難く
湿度を下げやすくすることに重点を置いた設計になっています
そういった意味からも当時の弊社の杜氏の進言もあり
2階(通常の3階の高さ)に麹室があります


この蔵の建設時の杜氏 水田 糺(=ただし・備中杜氏・笠岡)・・・
彼は、若い頃朝鮮でも酒をつくった経験があります
半島での経験から「麹室は乾燥しやすい2階室に限ると・・・」
戦前の「備中杜氏」の活躍の広さを物語る話です
先人の努力と経験の積み上げの上に今があることを思い知らされます・・・
ラベル:
posted by 作州武蔵くん at 12:17| Comment(0) | 酒づくり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。